子どもが生きる時代の表象について2012/05/06 00:09

5月5日、子どもの日に"WALL-E"をテレビにて鑑賞し、
それが映画"AI"の続編だったのだ、と独断的に了解しました。
「最初が悲劇で二度目が喜劇」と申しますが、
この作品からは、"AI"を観終わって感じたある種の「暖かさ」と、
それと表裏になった底知れぬ「寂しさ」という複雑な印象と比較して、
「希望」とでもいうものが少なからず感じられた(すなわち「茶番」では
なく「喜劇」として)、と思ったのは、その映画の鑑賞経験のみが原因
なのではなく、同日夜半に国内の商用原子力発電所が全面的に
停止することになっていたことも、大きく影響しているのだろうな
と思いました。

人の世に熱あれ、人間に光あれ2012/03/04 02:17

Lech Majewski監督の映画"The mill and the cross"
(邦題:「ブリューゲルの動く絵」)においても描かれているように、
Peter Bruegelの描くキリスト教的宗教主題の焦点はしばしば絵の焦点
からはずれた位置に設定されている。一般に事象に対する焦点の
むけ方は、その事象に対する関心の高さ、ひいては重要性を示唆する
ものと考えられるがゆえに、見方を変えれば、焦点からのずれは、
その焦点の向けられなかった事象への関心の低さを一方で示唆して
いると捉えられなくもない。
 しかし、事柄の本質的側面はその時点・その現場においてではなく、
時の流れの中で事後において意味づけられ、形作られ、顕かになって
ゆくものであると考えるならば、象徴的であるべきものでありながら
描き手によって視点を外された事象は、決して関心の外に留め置かれ
たのではなく、焦点を当てられた事象との関連において、その事象に
媒介された形で位置づけなおされたと観ることもできるのではない
だろうか。
 このようなことを改めて思ったのは、3月3日が水平社宣言の90周年
にあたるとの報道を耳にして、webであたってみたところ、この宣言の
重要性は言うまでもないことながら、現在における位置づけが当初
からあったのではなかったという再評価の記事が部落解放・人権研究
所のページに掲載されているのを目にしたからであった。
 今日に至る運動の本質的側面を象徴するこの宣言文は、その運動
が本質として普遍性を帯びて人類的視野で展開される具体的活動と
なった現在において、より焦点を向けられる事跡となってきたといえる
のではなかろうかと、まだまだ寒さが予想されるものの、陽の影は短く
なり、気づけば手袋を外してしまっていることの多い、益々春の感じら
れるここ数日の空気の中で考えた。

最期まで目覚めているということ2012/02/25 01:31

Lars von Trier監督作品"Melancholia"を観て、
鬱状態というのは人間社会への適応の「不全」を特徴づけると同時に、
秀逸なる生物学的適応機制でもあることを改めて認識しました。

永遠と一日2012/01/25 09:25

「シテール島への船出」や「こうのとり・たちずさんで」の
Theo Angelopoulos監督が交通事故で亡くなられたそうです。
車道上で立ち止まってしまわれたのでしょうか。
あちらの世界には到着されたと願いたいところではありますが。

いつもあるべきものがないことについて2012/01/08 12:10

「宇宙を旅した」酵母菌を使用した焼酎が鹿児島県にて製造・発売される
という新聞記事を読んだ。
 一般に放射線を照射したり、特別な化学的処置により遺伝子操作を
施された食品なりは、倦厭される傾向にある中で、無重力の処置を施
された製品は例外になるようである。我々は重力という特別な処置を
施された生物によって産出される製品を食品として利用しているが、
それを「欠いた」ということについてはあまり特別な「危険性」を感じない
ようだ。
 いつもあるものがなくなってゆくということに対する感覚の鋭敏さは、
人類には進化途上で養ってこられなかったのだろうか、とこの酵母菌の
事例はさておき、一般的に考える機会を得た。

一見平行に見える二本の線がどこかで交わることを信じるということ2011/12/16 22:31

ベント・ハーメル(Bent Hamer)監督作品の"Home for Christmas"
(邦題:「クリスマスのその夜に」)を神戸のシネ・リーブルで観ました。
現代におけるクリスマスとは何かを深く味わってみられたい方や
寒空でシリウスを見て地球を"home"と感じたことのある方々、
あるいはない方々は、
是非ご覧になってください。

何を評価するのかという点について2011/12/10 02:29

 もうかなり前のことになるが、「ダイナミックアセスメント」という用語が
流行し始め、Bloomなどを知らぬ世代の人たちにもこの言葉を個体
学習の「形成的評価」という意味合いにおいて語る事例をみかける
ことがあった。
 原子力安全基盤機構(JNES)は9日、福島1号機「非常用復水器(IC)」
が津波から45分以内に稼働していれば、炉心溶融に至らなかった
とする解析結果を公表したのにたいして、東電は「津波直後の数時間
はプラント全体の状況把握に取り組むのが精いっぱいで、ICに集中し
て対応できる状況ではなかった」と答えた。(MSN産経ニュースを参考)
 当事者個人ないし集団の対処行為および下した判断の結果が「良い
か悪いか」などという以前の問題として、前者の判断は抽象的であり、
後者の判断は具体的である。また、前者の判断は個体還元主義で
あるのに対して、後者の判断は状況決定論的である。
 人がシステムの稼働過程において、個々の転換点の判断の契機を
担っているとすれば、確かにそこに「原因」が帰属されることは当然で
あろう。しかし、判断自体は個体の恣意的で閉じた思惟の産物として
下されるのではなく、判断個体が生きていた状況の制約の中で起こっ
ていることを我々は知らねばならない。個体を交換すれば、また新たな
個体が同じ誤判断を下さざるを得ないような状況に置かれることにな
るのである。今回状況分析を欠いた評価を外部評価団体が下すなら
ば、その誤判断は福島を忘れたころに、改善されなかった同じような
状況の下で、再度起こることになるだろう。
 もちろん、このような憂慮に時間を費やす意義があるとすれば、
それは、もし改善することで何とかなる場合のことに限られるという
条件も付帯しておかねばならない。つまり、さらに不可解な「核燃料
サイクル」という、それをさらに包括するシステム自体が価値ある
ものであるという前提のもとに上記考察は有益なのであり、かつ、
私は決してそうは思わない、という条件を付けてのこととしてである。

あるべきやうは2011/11/12 22:48

 保手浜孝さんの個展が開かれているギャラリーしあわせなふくろうにて
来店者の歓談を耳にしながら作品を鑑賞していたところ、店外に出た
方から、夕日がきれいだとの報告があり、さらに店外で眺めた方から
感嘆の声が聞こえ、ぞろぞろと私も含めて7名全員が路上に出て、
西の空を眺めることとなった。
 部屋に戻って壁の絵画を見ると、室内に夕日がしみ込んできたかの
ように、部屋の中の空気が赤みを帯びて感じられた。店の外と内が一体
となって作品で満たされた印象を受けた。
 絵本製作に関するうんちくをお伺いして暗くなった店を後にした。
 充実した週末であった。

年を経ても腐らない廃棄物について2011/11/03 22:55

早朝にバルコニーで、健気に生き残っている5種5鉢の植物群に
水を補給していたら、その一つのアロエの鉢内に、細い細いロープ状
のものが確認された。それはほぼ1年前にその位置に落下した合成
樹脂繊維によって構成される紐の切れ端であったが、一年前とほぼ
同系同色でそこに落下した当時と変わらずに存在しているので
あった。
 他の植物や土壌その他、鉢内の物体はことごとく変化を遂げて
そこに存在しているはずであるが、この物体のみが、周囲からは
突出してその不変性を際立たせているのであった。
 普段、人工物に囲まれた中で生活していると、とりわけ生物が常に
終わりない変化の流れに身をおいていることに気づく機会がないので
あるが、鉢の中の世界は大粒の石でも存在しない限り、その変化が
常態である世界であるがゆえに、このような不変性を露わにした紐は、
よりその人工的〈もの〉性を際立たせて周囲に自己主張しているので
あった。
 我々の心的プロセスの中で不変性を維持させることは、言葉に代表
されるように象徴機能を働かせ、抽象化し一般化するという点で、人間
の高度で媒介された活動を展開する重要な要件となってはいるので
あろうが、その不変性が〈もの〉として現実化してしまうと、もの同士の
関係に歴史を背負っているといえる〈自然〉と折り合いをつけにくい、
これまた処置に困る孤立したものになってしまうのだろうなあと、
幾分くたびれたシャツやらタオルやらを物干しに干しながら思った。

観る?観ない?2011/11/02 21:51

"Cap ou pas cap?"(のる?のらない?)が当時耳について離れなかった
Yann Samuell監督作品"Jeux D'enfants"の「世界でいちばん不運で幸せ
な私」という邦題タイトルが印字されたDVDが新規購入品として仕事場
の図書貸し出しカウンター横に展示されているのを目にしたので驚いた。
 昔観た懐かしい映画のDVDがそこにあったからではない。公開間近
の同監督作品"L'AGE DE RAISON"(邦題:「マーガレットと素敵な何か」)
の上映館とその開始日を昼休みにwebで確認したばかりだったから
であった。観ることを運命づけられているようで不気味であるが、同時に
ぞくぞくする独特の感触を感じた。
 「観る?観ない?」答えは自明である。

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